新しんくれちずむ

日本の民俗・オカルト・信仰と現代社会の狭間から。

空き寺を埋めるモノ

 

年度が変われば物書きする時間も出来ると思っていたが、ままならないのが人生である。久々の更新です。

 

私事ですが、先月に地元の市史編纂委員と文化財保護委員を嘱託され、不安定な身に多少の箔がつき、今後の人生の展望も少しは開けたというところです。

各分野の専門家7名からなる文化財保護委員会で「郷土史家」の席に就いたことは些か不本意でもあり、かと言って他の「民俗学者」や「美術史家」「建築史家」といった専門職に知識で劣るのは否めず、一層研鑽に励もうかな、といった感じだ。

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さて、近年、檀家や後継者不足で廃寺になる寺が少なくない。後継者がいない場合であれば同宗派の兼帯寺になることも出来るのだろうが、檀家の減少は経営に直結する、まさに死活問題だろう。

考えれば、葬式や年忌供養、墓地経営を主な収入として住職一家を養っている現在の体制から脱却することが必要なのだが、近世の寺檀制度を通じて葬式仏教と化してしまった諸宗には無理な話だろうか。となれば不採算寺院の廃絶は当然の帰結とも言える。

 そもそも、先祖代々寺を守る僧侶の家系などというものはそれほど古くない。江戸時代、浄土真宗を除く出家者は妻帯禁止で子どももいなかったはずだ。当時の師から弟子という血縁によらない寺の相続は今よりもはるかに不安定で、当然のように無住すなわち住職がいない状態が生まれた。それが長く続けば廃絶する寺院もある。その隙間を埋めたのが漂泊する宗教者、特に修験者や行者だ。

いわゆる修験道というのは密教系の一派とされがちだが、深山に分け入って神仏と交信し、その神秘を感得して験力を得るという、仏教の枠にとらわれず、日本在来の神祇信仰や中国の神仙思想を取り込んだ混淆信仰だ。

彼らは山の峰々を伝って移動し、立ち寄った村落でその験力を使った加持祈祷を行い民衆を救う存在だった。山に住み薬草等の知識に長けていたため薬師の役割も果たした等、現実的な効用もあったとされる。

修験者は山々を移動する際の拠点として修行場や山間の社寺を利用したと考えられる。そこにしばらく逗留する場合、無住の社寺では仏事や祭祀を代行した。こういった空白期間を埋める漂泊の宗教者の存在が中近世の神社・寺院を下支えしていたことを、家系や血統に捉われがちな現代の伝統宗教界は見直さなければならないだろう。

修験者の動向は、都市部とは異なる地方部落に於ける宗教者の活動として注目されるところだが、文献や金石文等の資料だけで彼らの活動を追うことは難しい。かといって、最盛期には仏僧と同数存在したと言われる修験者が、日本文化の中にその痕跡を残さないというのも奇妙だ。

となると頼りになるのは昔話や伝承など口承の類で、実際に修験者が法力を使う話などが昔話や説話に残されている。各地に伝わる役行者弘法大師の伝説と修験者の活動の関係も想起されるところだ。

また、山で出会う怪異にも修験者の影響は強い。特に天狗の衣装などはまるきり修験者のそれである。異形かつ異能、山という身近にある異世界を自由に横断する修験者は、農民にとって妖や怪と紙一重だったのだろう。

 

ところで、昔話には住職のいない空き寺に住み着く妖怪の話がいくつかある。彼らの正体は大抵タヌキやキツネなのだが、その寺を根城として悪さを働くパターンと、僧侶に化けて住職として勤仕するというパターンがある。前者も後者も最後には正体を見破られ、武士や本物の僧侶に成敗されたり犬に食われて死ぬという哀れな話もある。真面目にお勤めをしてきた後者にとってこれは不条理である。

証明する手立てもないが、これらの話に登場するキツネやタヌキは素性の知れぬ漂泊の宗教者であったように思えてならない。特に修験者だが、先に述べたように彼らの信仰には独自のものがあり、仏教諸宗から見れば異端とも取れる部分を含む。

ある空き寺へ"正しい"仏僧がやってきて"正式な"住職になった。そこで、これまで修験者が寺で行なってきた仏事は"間違っている"と否定した。村人たちは修験者へ謝礼を渡していたので騙されていたと感じ、「あれは坊主のフリをしたニセモノだ」と言い、「妖が住職に化けていた」という話が生まれた。という仮説が立てられようか。

「キツネやタヌキが真面目にお勤めしていたとしても、所詮は畜生の身。正規の修行を経ていない以上、功徳はないし、まして報酬を得る資格はない。罰を受けろ。」という農民の感覚が、哀れな結末の物語を生んだのかもしれない。天台宗などの解釈では、畜生も悟りを開き成仏する可能性=仏性を持つとしているので、仏教説話系の昔話とは一線を画すようだ。

哀れにも亡くなったキツネやタヌキは、後に神社の祭神として祀られることが多い。僧侶の真似事をした動物が神になるというのは、当時の神仏習合観を知る上でも面白い事例だ。

しかしまあ、現代の僧侶の中には昔話の悪いキツネやタヌキにも劣るような俗物がいるが、仏の教えを最もよく知る身でありながら、それに背き続けた彼らの末期がどうなるものか、非常なる興味を持って眺めてしまう。